先日、テレビを見ていたら、芸能人が漁師さんと一緒に船に乗り
本格的な海釣りに挑戦する番組をやっていた。
私は観光釣り場などで鮎などの釣りをするのは大好きなのだが
まだ海での釣りというものはほとんど経験したことがない。
船に乗って釣りをしに行ったことは一度もなく、一度熊本の親戚の家に遊びに行った時に簡単な釣り竿でイワシなどの小魚を釣ったことがあるくらいだ。
それでも十分楽しかったのだが、船に乗って本格的に釣りってすごく楽しそうだし
挑戦してみたいなぁと興味深々で番組を見ていた。
その時、ふと10年以上前の、とある事件を思い出したのであった。
『買ったばかりのジャージ救出事件』である。
私は現在住んでいる家に引っ越してくる前は、マンションに住んでいた。
そこは観光地の真ん中に立っているマンションで、
周囲は昔ながらの建物が多く残っている情緒ある街並みといった風情だった。
私はそのマンションの5階に住んでいた。
ある日、いつものようにベランダに洗濯物を干して外出したのだが、帰宅して洗濯ものを取り入れようとすると、朝干した買ったばかりのスポーツブランドのジャージが見当たらない。ここは5階だし、洗濯物が盗まれるなんていうことはあり得ないし・・・
以前別のマンションの1階に住んでいたとき、干しておいたスニーカーを盗まれたり、下着ドロボーにブラジャーを盗まれたりという災難に見舞われた私は、このマンションの5階に引っ越してから安心して洗濯ものを干していたため、干した洗濯物が無くなるという久しぶりの事態に、慌ててまわりを見渡した。だがジャージは見当たらない。
もしかして・・・とベランダから身を乗り出してみると、マンションの敷地の隣に建っている古い民家のトタン屋根の上にうちのベランダから飛んで行った真新しいジャージが鎮座しているのが目に飛び込んできた。
まじか・・。
めちゃくちゃ面倒なことになったぞ・・。
すでに着古したパジャマみたいなジャージならあきらめもつくのだが
なにしろスポーツブランドの真新しい一着だ。
飛んで行っちゃったんだから仕方ない。と諦めるわけにはいかなかった。
しばらく悩んだ結果、ひとまずそのお宅の方に正直に話して相談し、とらせてもらおうという無難な考えにたどり着いた。
さっそくそのお宅にお伺いしてみる。
とても年期の入ったお宅で、玄関にはチャイムがなかった。
そこでドアをノックして、『ごめんくださーい!』と呼びかけてみた。
反応は無し。何度か繰り返してもやはり反応がない。
そっと玄関の引き戸に手をかけてみると、鍵はかかっておらず
中から大音量のテレビの音が聞こえてきた。
引き戸を10㎝くらい開けると玄関の中に向かって再度呼びかける。
『ごめんくださーい!』
『ごめんくださーい!』
『ごめんくださーい!』
何の反応もない。
『ごめんくださーい!』
『ごめんくださーい!』
『ごめんくださーい!』
『ごめんくださーい!』
お家の中に人がいるのはわかるのに、何度呼びかけても出てきてもらえない・・
しまいには高校野球の応援団長さながら後ろに手を組み、胸を反り『ごめんくださーい!』と渾身の大声を張り上げたが全く反応がない。相当耳の遠いお年寄りのお宅なのだろうか。
しかしいくら玄関からの呼びかけに反応が無いからといって、まさか勝手に上がり込み、リビングのドアをあけて『すみません。』とヒョッコリ登場するわけにもいかないだろう。
私は大声を出し過ぎたことにより軽くせき込みながら、仕方なく玄関の引き戸をそっと閉めた。
自宅に戻って再び別の案を考えてみた。
あれだけ叫んでも反応してくれないお年寄りなら、たとえ連絡がとれて、『お宅の屋根にうちの洗濯物がのってしまいました』とお伝えしたところで手を貸してもらうことは難しいだろう。
悩みぬいた結果、主人の実家から釣り竿を借りてきて自宅のベランダから釣り竿を垂らし、お隣の民家の屋根からジャージを釣り上げてみよう!という結論にたどり着いた。
主人の母親は九州出身で、釣りが大好きだった。
以前よくお友達のご夫婦と大分まで出かけ、大量の魚やイカなどを釣り、干物を作ったりお刺身にしたりと楽しんでいた話をしてくれたことを思い出したのだ。
さっそく借りてきたイカ釣り用の釣り竿。
なにひとつ悪いことをしようとしているわけではないのだが、白昼堂々、自宅のベランダからよそ様の敷地に向かって釣り糸を垂らしている姿などを万が一他人に目撃されたりしたら通報のひとつやふたつされておかしくないであろう。
いや、実際私だって近所でそんなやつを見かけたとしたら自ら通報するだろう。
そのため日が沈みあたりが暗くなるのを待ち、そのタイミングを見計らった。
周囲が真っ暗になったころ、私は作戦を決行した。
自宅のベランダから、お隣の民家へ向かってそっと竿を伸ばしていく。
私はイカ釣りについては全く詳しくないのでこれが普通なのかどうかわからなかったが、借りてきた釣り竿はかなり重量のある重りがついていた。
本来の目的通り、釣り糸を海の底深くに沈めるためであればこの重りはきちんとした役目を果たすのだろうが、民家の屋根の上にめがけてプルプルしながら伸ばした釣り竿から伸びた釣り糸の先に着いた重りは、勢いがついて完全にコントロールを失い、民家の屋根の上空でグルグルと旋回し始めてしまった。
やばい!やばい!
必死で釣り針の照準をジャージに合わようとするも、空中で完全に制御不能となった釣り糸の重りはそのまま旋回しながらトタン屋根に当たり『ゴン!』と音が聞こえた。
ギャー!
私は焦ってとっさにベランダに倒れ込み、ベランダの柵に身を隠した。
そして倒れこんだまま柵の隙間から辺りの様子をそっとうかがってみる。
シーンとしていてだれも私の活動には気づいていないようだ。
気を取り直し、再びベランダからそっと釣り竿を伸ばす・・・やはり空中を旋回し始めてしまう釣り糸の重り・・・
くそーー!(涙)
マジでなんでやねん!!!!
本当に私は何をしているのだろう・・。
私は常識的に生きていきたいだけの普通の成人女性なのだ。
パニックになってベランダに隠れなくちゃいけない後ろめたい生き方なんてしていないはずなのだ。いつだって正々堂々と生きているんだ!
なのに私は今、暗闇の中、よそ様の屋根の上空でイカ釣り用の竿を振り回し、正真正銘の不審者としてここに存在している。私はこんなことひとつも望んでいないのにだ。
運命はなぜいつも私にこのような試練を与えるのか・・。
この世界には私をおとしめようとする何らかの力が働いているのではないか?
そう本気で疑わざるを得ない。
真っ暗なベランダで、私は自分の人生を呪った。
しかし、乗りかかった船・・・いや、のりかかったベランダだ。
こんなところでみすみす諦め、引き下がるわけには行かない!!
今やめたら、それこそただの本意気の不審者だ。
私は覚悟を決めると再び立ち上がった。
全神経を釣り竿に集中させ、何度も何度も釣り竿を伸ばし、チャレンジし続けた。
そしてついに、ついに新しいジャージを民家の屋根から釣り上げたのだった。
かくして新しいジャージは無事に私の元へ戻ってきたのである。
達成感と同時に、極度の疲労感に襲われグッタリしたことを覚えている。
それ以降、洗濯物を干す時には大事な衣類が飛んでいかないよう、細心の注意を払うようになったのは言うまでもない。
テレビ番組で見た本格的な海釣りで思い出した、遠い日の『買ったばかりのジャージ救出事件』であった。